テロリスト集団の日本赤軍のリーダーとして、世界を恐怖に陥れた重信房子。
そんな重信房子が過去に何をしたのかついて
今回は
- ハーグ事件について
- 日本赤軍とは
以上の2つについて書いていきます。
重信房子のプロフィール
名前(ふりがな) | 重信 房子(しげのぶ ふさこ) |
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生年月日 | 1945年9月28日(76歳) |
出身地 | 東京都世田谷区 |
最終学歴 | 明治大学 |
重信房子が何をしたのかわかりやすく解説
2022年5月28日に重信房子が出所しましたが、この重信房子は過去に何をしたのか分からない人も多いと思います。
重信房子がしたことを簡単に言うと日本赤軍のリーダーとしてハーグ事件を計画し、メンバーにオランダのデン・ハーグにあるフランス大使館を襲うように指示をしました。
このことにより、重信房子は、日本赤軍のリーダー、ハーグ事件の首謀者として逮捕されました。
次からは、そのハーグ事件について詳しく書いていきます。
ハーグ事件とは?
ハーグ事件とは、1974年9月14日にオランダのデン・ハーグという場所で、重信房子がリーダーを務めていた日本赤軍が起こした事件です。
内容としては、まず1974年に日本赤軍の山田義昭がパリ=オルリー空港で「偽造米ドル所持」「偽造旅券行使」の容疑で逮捕されたことから始まります。
そして、この日本赤軍(重信房子)から山田義昭を取り戻す為に日本赤軍の構成員である和光晴生・奥平純三・西川純の3人に対し、オランダのデン・ハーグにあるフランス大使館を襲撃して人質にした大使らと山田義昭を交換する交渉を行うように指示されました。
9月14日に和光晴生・奥平純三・西川純の3人が拳銃・手榴弾で武装して侵入し、大使ら11人を大使室に監禁しました。
そして、人質の解放と引替えに山田義昭を引渡すことと脱出用の航空機、慰謝料100万ドルを要求しましたが、交渉は上手くいかずオランダ警察と撃ち合いになり、警官2名が重傷、奥平純三がもも右上腕部を負傷しました。
9月15日にはパレスチナ解放人民戦線(PFLP)のテロリストであるカルロスがパリで爆弾テロを起こし、2人が死亡、34人が負傷しました。
このテロにより、フランス当局にプレッシャーがかかり、9月17日に和光晴生・奥平純三・西川純の3人の交渉に応じることとなり、慰謝料として30万ドル、脱出用航空機のボーイング707を用意しました。
そして逮捕されていた山田義昭を解放しました。
9月18日にお金と山田義昭を受け取った和光晴生・奥平純三・西川純の3人はオランダのスキポール空港を飛び立ちました。
その後、南イエメンにあるアデンという都市に降りるも燃料の補給のみをして再度飛び立ちます。
同日にシリアのダマスカス空港に着陸するも、30万ドルなど持ち物全てを放棄することを要求され、和光晴生・奥平純三・西川純の3人は要求を飲むことにし、シリア当局に降参しました。
日本赤軍とは?
日本赤軍は、1971年に共産主義者同盟赤軍派の重信房子と奥平剛士がパレスチナでパレスチナ解放人民戦線への国際義勇兵として結成しました。
1980年代などには、中東やヨーロッパ、東南アジアで各国の大使館を襲撃したり、航空機をハイジャックしたりと多くの事件を起こしました。
しかし、1990年代から日本赤軍のメンバーが次々に逮捕され、2000年に逮捕された重信房子が2001年に日本赤軍解散を宣言しました。
まとめ
今回は、重信房子が何をしたのか書いてきました。
重信房子が直接手を下して何かをした訳ではありませんが、日本赤軍を率いて多くの事件の指示をしていました。
手を下してないにせよ多くの事件に関わったことには変わりはありません。
この記事で、重信房子が何をしたのか理解していただければ幸いです。
最後までご覧いただきありがとうございました。